平成31年は4ヶ月しかなかったので、この期間に発行された平成の硬貨は他の年に較べて数が少なく、希少価値がある、などと噂されているようです。でも、4ヶ月は硬貨の希少価値を生むほど短いとは思えませんし、私は貨幣の収集を趣味にしているわけでもありませんので”希少価値云々” はどうでもよいのですが、2019年は幸せに時代が移行し年号が改まったという意味でこの年の硬貨は平成と令和の記念品として手に入ればひとつやふたつは手元に置いておこうかと、はじめはその程度のことを考えていました。(令和元年の硬貨も打ち初めが7月11日なので、発行期間は半年弱と短いです(日経)。)
見つけた!
写真は2019年11月上旬時点で、わが家の財布の中から見つかっていた平成三十一年発行の500円、100円と10円の硬貨です。どれも財布の中でひときわ光っていたので見つかりました。しかし、500円硬貨と100円硬貨は実物を見た感じからすると写真では細かいキズや凹凸が目立ち、輝きもいまひとつです。これに対して、写真右端の10円硬貨は錆(さび)やキズがほぼ見当たらず、斜めに入った反射光の輝きといい、プルーフ硬貨(後述)には及びませんが、流通している硬貨としては滅多に出会えない美形でと言えるでしょう。
造幣局はお金(硬貨)を”売って”いた!
今年、造幣局は平成の御代いっぱいの4月末まで、平成31年銘の1円から500円の現在流通している硬貨全6種類666円をケースに収め、ミントセット(*)として2,000円で販売していました。ネットをはじめ造幣局の櫻の通り抜け等でも自由に買うことがが出来ましたから手に入れた人は多いと思います。私は造幣局オンラインショップで見つけて買いました。このときオンラインショップの記事から、造幣局がこの無抽選の通常貨幣セットと平行して、同じ貨幣の高級品セットともいうべき”平成31年銘通常プルーフ貨幣セット”を6万セット限定発売していることを知り、運試しにと申し込んでみたら抽選で当選しました。冒頭の写真で3枚の硬貨の”下敷き”に使っているのがそのプルーフ硬貨セットのケースです。Japan Mint の文字があります。(*:ミントセット=造幣局が発行する硬貨のセット。mint は「造幣局」のことです。因みにミントと云えば「ハッカ」ですが、それは同じmintと綴る別の単語です。語源が違うようです。)
高級品の硬貨は貴金属のように美しい!
では、プルーフ貨幣とはどのような貨幣なのでしょうか? 造幣局HPでは、プルーフ貨幣を「収集のための貨幣」とはっきり規定した上で、「表面を鏡のように磨いたもので、製造方法は、表面を磨き上げた極印(ハンコに相当する金型)を使用する他、模様を鮮明にするため、圧印を2回打ちするなど、特別に丁寧に製造」している、と説明しています。確かに、ケースに収まった6枚額面計666円のプルーフ硬貨はどの1枚も表面は文字通り鏡のように輝いており、セットの価格は7,560円と高価でした。単に時代の記念品としてなら、価格も2,000円と妥当(?)で、流通している通常貨幣のミントセットが正統派だと思いますが、プルーフ貨幣セットには、たとえば表(おもて)面に平等院鳳凰堂がデザインされた10円硬貨に代表されるように、一種の美術品として、実用品の貨幣とはまた違った何かがあると感じました。蛇足ですが、プルーフ硬貨も通過に変わりなくセットをバラして使えば10円は10円として通用します(下段写真)。
まとめ:平成31年貨幣セットを自家製でつくるのは無理!
はからずも造幣局から買うことが出来た通常ミントとプルーフミントの2種類のセットはもちろん大事な記念品になりましたが、たまたま財布に入ってきた冒頭写真の500円、100円、10円の3枚の硬貨は平成の記念品として、「よくぞわが家へ来てくれた」という思いを込めれば買ったセットに負けない宝物です。あと1円、5円、50円の3枚が見つかれば「自家製セット」を作るという所期の目的を達することが出来ます。しかし、発行枚数(**)がそれぞれ 8,200万枚、5,600万枚と少なかった50円と5円硬貨を見つけるのは難しく、さらに、一円玉に至ってはたった100万枚しか発行されませんでしたからゲットするのはまず無理でしょう。よって「自家製セット」完成は見果てぬ夢になりそうです。(×*:平成31年の硬貨発行枚数は、500円=約2億枚、100円=約3.7億枚、10円=約2.7億枚。:データーは財務省HP「貨幣の製造枚数」による)。
余談ですが、現在の日本の硬貨は、1円アルミ貨を除き他は全部銅の合金です。500円硬貨はニッケル(銀白色)の含有量が比較的少ない黄銅が使われており、100円(と50円)の白銅貨に較べると色がすこし金色がかって見えるはずです。そのことは普段はあまり気付きませんが冒頭の写真を見れば色の違いがかなりはっきりわかります。左から順に黄銅、白銅、(青)銅の貨幣です。
追加 (令和二年二月)
令和元年も500円、100円、10円だけ見付けました。三枚ともさすがにまだ目立ったキズもなく非常に綺麗です。
プルーフ硬貨(下段写真の説明)
平成31年プルーフ10円貨幣の表(おもて)面:日本のプルーフ貨幣は完全な鏡面に仕上げた地(背景)の上につや消し(梨地)の模様と文字が立体的に浮き上がるよう作られています。写真では黒く見えるところが鏡面です。そこには一点の曇りもありません。写真は左下方向から直射日光を当てて撮影したため、貨幣右上部、「日本国」辺りの浮き出た部分が特に光り、「国」の字の左下など三重にもなって鏡面に映っています。通常の(プルーフでない)10円硬貨は照明をどのように工夫してもこの写真のように写ることはありません。なお、プルーフ(proof)という単語には”校正刷り”または”品質”や”見本”などという意味があり、かつてはは貨幣の試作段階で作られたものにもこの呼び方が使われていたようです(Wikipedia参照)。
通貨(紙幣も硬貨も)の写真をネットにアップすること自体は法に触れることではないようです(財務省HP)。しかし、アップされたその写真が誰か良からぬ人によって印刷されて、”通貨と紛らわしい物”が作られたりすると、偽札(偽硬貨?)ということになりかねず、アップした人もただでは済まない可能性があるとのことなので、貨幣の写真には「見本」などの文字を入れるか、斜線を引くなどしておくことが必要のようです。よって、このページでは使った7枚の硬貨それぞれの右肩に「見本」の文字を入れ、写真そのものの解像度も十分低くして精密印刷には向かないようにしてあります。なお、財務省は「通常貨幣一覧」というページに現在通用している全硬貨の写真を無修正で公開しています。
夏の夕方、私の部屋へはアブラゼミの鳴き声が飛び込んできます。部屋の前に彼らが好む櫻などの木があるからです。この写真は私の部屋から撮りました。写真全体がやや赤っぽいのは夕日に照らされているからです。姿勢を高くし、羽根をやや拡げて彼は今まさに懸命に青春の歌を歌っています。アブラゼミが成虫として過ごす期間は一ヶ月ほどとされています。写真の個体の翅脈が緑色をしていることからみて、この個体が羽化してまだ日が浅い(若い)ことを示しています。(羽化したてのセミの翅脈は緑色です。翅脈が茶色くなるのは羽化から日が経っているからだ、と私は子供の頃からそう思っていました)。何らかの方法で翅脈の色とセミの日齢の相関表を作ることができれば、立派な研究成果になると思いますよ。
アブラゼミ(Graptopsaltria nigrofuscata)は日本から中国大陸北部にかけてのごく限られた地域にしかいません(Wikipedia)。セミの羽根は大抵は透明ですが、ニイニイゼミとアブラゼミは不透明な羽根を持つ少数派です。アブラゼミは山間部ではいちばん普通に見られるセミですが、都市部、特に関西の大都会ではクマゼミばかりが目(耳)につき、アブラゼミには滅多に出会えなくなりました。
アブラゼミは脅かさなければ逃げないので簡単に素手で捕まえることができ、昔から田舎の子供たちのよい遊び相手でした。
大宇陀高校シンボル、校章をつけた八角塔と昭和天皇行幸記念碑(手前)。垂れ幕は「宇陀の阿騎野に未来へ向けて、地域と絆を深める大宇陀高校」(2019/4/7)
母校は廃校になるかも知れません。
卒業、入学のシーズンになると、母校のことが気にかかります。私は奈良県立大宇陀高等学校(大宇陀高校=写真)の卒業生です。かつて郡山中学校、畝傍中学校、五条中学校に次いで、奈良県立のいわば第四中学校として大正12年(1923)発足したのが旧制宇陀中学校(宇陀中)でした。学校創設には、地域住民有志の熱い応援がありました(大宇陀高校創立70年周年記念誌)。開校以来奈良県東部の宇陀地方、吉野地方の教育のシンボル、中心として幾多の人材を輩出してきました。作家、黒岩重吾氏は宇陀中に学びました。
昭和20年代になって旧制中学が新制度の高等学校にかわったとき奈良県には16校の県立高校が出来ていました。各校とも生徒数も多く、大宇陀高校では昭和30年(1955)頃で1学年で200人を超す生徒が在籍していました。昭和20年代は小学区制がとられており、地域の”秀才”たちも他地区の学校へ流出することがなかったため、学校間の学力にさほど大きな格差はなく、わが大宇陀高校からも毎年旧帝大を含む国公立や私立の有名大学へ何人もが合格していました。
大宇陀高校の運命を決定的に変えたのは、昭和30年代前半、地域密着の小学区性が取り払われ、宇陀地方に住む中学生も望めば畝傍高校でもどこでも受験できる大学区性が導入されたときです。以後、高校全入の時代になり、今では奈良県では公立高校だけで37校、私立を加えると56校を数えることとなり、学力の高い生徒をを私立の中、高等学校が奪っていくようになった結果、”よく出来る子”の志願者が減ってしまった公立高校では奈良高校一校を例外として各校の学力が低下しただけでなく、学校間格差も拡大しました。交通が不便である、という致命的なハンディを持つわが母校は、そういう競争の枠にさえ入れず、現在たった120人の定員でも半分位しか志願者がない状態が続いています。当然のことながら学力ランクについてはもはや語る言葉を持ちません。
大宇陀高校に限らず、県立高校全般の凋落については、納税者そして父兄でもある奈良県民の負託に応えてこなかったという意味で、漫然と県立高校を運営してきた奈良県、同教育委員会の責任は厳しく問われるべきです。
2018年6月、伝統あるわが大宇陀高校を榛生昇陽高校(前身は旧制宇陀高等女学校)に統合させ、宇陀高校とする、という方針を奈良県教育委員会が明らかにしました。分校のような形ででも学舎は残して使う、とはいわれています。情けないことになりましたが、せめてその線だけは譲らないでほしいものです。大宇陀高校の玄関脇には天皇陛下が昭和26年11月8日に行幸されたことを記念する行幸記念碑が建っています。これを移動させたり、校舎を取っ払った野原の真ん中に放置するなどということは絶対避けなければなりません。
奇しくも宇陀中学校創立から99年目に発足するであろう新しい宇陀高校が旧宇陀中学校から大宇陀高校へと引き継いできた「剛健・進取・偕和」の誇りと伝統を何時の日か取り戻してくれることを願わずにはいられません。しかしそれは容易なことではありますまい。
大宇陀高校校歌 作詞:五味保義 作曲:下総皖一
かぎろひ立てる東(ひんがし)の
空朗らかに明けゆきて
宇陀の阿騎野にそびえ立つ
八角塔のかゞやききは
求めてやまぬ理想の象徴(しるし)
豊けしここにわれらが母校
旧制宇陀中学校かそのまま引き継いだ木造時代の大宇陀高校の正面で、母校のシンボル八角塔はこれが初代の姿です(昭和29年頃撮影)。旧制中学の時代には、正面の「高」の文字は、「中」の木組みで出来ていました。木組みを覆う屋根の形は「宇」を表すウカンムリです。志願することさえ難しかった旧制中学は誇り高い存在だったのです。