大宇陀高校シンボル、校章をつけた八角塔と昭和天皇行幸記念碑(手前)。垂れ幕は「宇陀の阿騎野に未来へ向けて、地域と絆を深める大宇陀高校」(2019/4/7)
母校は廃校になるかも知れません。
卒業、入学のシーズンになると、母校のことが気にかかります。私は奈良県立大宇陀高等学校(大宇陀高校=写真)の卒業生です。かつて郡山中学校、畝傍中学校、五条中学校に次いで、奈良県立のいわば第四中学校として大正12年(1923)発足したのが旧制宇陀中学校(宇陀中)でした。学校創設には、地域住民有志の熱い応援がありました(大宇陀高校創立70年周年記念誌)。開校以来奈良県東部の宇陀地方、吉野地方の教育のシンボル、中心として幾多の人材を輩出してきました。作家、黒岩重吾氏は宇陀中に学びました。
昭和20年代になって旧制中学が新制度の高等学校にかわったとき奈良県には16校の県立高校が出来ていました。各校とも生徒数も多く、大宇陀高校では昭和30年(1955)頃で1学年で200人を超す生徒が在籍していました。昭和20年代は小学区制がとられており、地域の”秀才”たちも他地区の学校へ流出することがなかったため、学校間の学力にさほど大きな格差はなく、わが大宇陀高校からも毎年旧帝大を含む国公立や私立の有名大学へ何人もが合格していました。
大宇陀高校の運命を決定的に変えたのは、昭和30年代前半、地域密着の小学区性が取り払われ、宇陀地方に住む中学生も望めば畝傍高校でもどこでも受験できる大学区性が導入されたときです。以後、高校全入の時代になり、今では奈良県では公立高校だけで37校、私立を加えると56校を数えることとなり、学力の高い生徒をを私立の中、高等学校が奪っていくようになった結果、”よく出来る子”の志願者が減ってしまった公立高校では奈良高校一校を例外として各校の学力が低下しただけでなく、学校間格差も拡大しました。交通が不便である、という致命的なハンディを持つわが母校は、そういう競争の枠にさえ入れず、現在たった120人の定員でも半分位しか志願者がない状態が続いています。当然のことながら学力ランクについてはもはや語る言葉を持ちません。
大宇陀高校に限らず、県立高校全般の凋落については、納税者そして父兄でもある奈良県民の負託に応えてこなかったという意味で、漫然と県立高校を運営してきた奈良県、同教育委員会の責任は厳しく問われるべきです。
2018年6月、伝統あるわが大宇陀高校を榛生昇陽高校(前身は旧制宇陀高等女学校)に統合させ、宇陀高校とする、という方針を奈良県教育委員会が明らかにしました。分校のような形ででも学舎は残して使う、とはいわれています。情けないことになりましたが、せめてその線だけは譲らないでほしいものです。大宇陀高校の玄関脇には天皇陛下が昭和26年11月8日に行幸されたことを記念する行幸記念碑が建っています。これを移動させたり、校舎を取っ払った野原の真ん中に放置するなどということは絶対避けなければなりません。
奇しくも宇陀中学校創立から99年目に発足するであろう新しい宇陀高校が旧宇陀中学校から大宇陀高校へと引き継いできた「剛健・進取・偕和」の誇りと伝統を何時の日か取り戻してくれることを願わずにはいられません。しかしそれは容易なことではありますまい。
大宇陀高校校歌 作詞:五味保義 作曲:下総皖一
かぎろひ立てる東(ひんがし)の
空朗らかに明けゆきて
宇陀の阿騎野にそびえ立つ
八角塔のかゞやききは
求めてやまぬ理想の象徴(しるし)
豊けしここにわれらが母校
旧制宇陀中学校かそのまま引き継いだ木造時代の大宇陀高校の正面で、母校のシンボル八角塔はこれが初代の姿です(昭和29年頃撮影)。旧制中学の時代には、正面の「高」の文字は、「中」の木組みで出来ていました。木組みを覆う屋根の形は「宇」を表すウカンムリです。志願することさえ難しかった旧制中学は誇り高い存在だったのです。