リットマン聴診器の箱 iPhone 12mini
私は公立高校の学校医を45年、大学と看護専門学校校医を20年ほど務めてきました。その私が今更何を、と驚いたのですが、最近学校検診で児童生徒を上半身裸にして視診、聴診することの是非を巡って議論が沸いているようなのです。私は、個々のケースで配慮すべき問題点があることには留意しつつも、原則、児童生徒には一度は上半身裸で学校医の先生の前に立ってもらいたいと考え、可能な限り実行してきました。そうしないと、発育についてや肥満、痩せを含め、全身の健康状態、姿勢や骨格の異常、皮膚疾患の有無などが分かりませんし当然聴診器による診察ができません。
その昔、肺結核とリウマチ熱の後遺症としての心臓弁膜症が多くの児童生徒らの健康問題だった時代では、肺や心臓の聴診は日常的に大事な診察手段だったでしょうが、これらがほとんど無くなり、また胸部レントゲン間接撮影(昭和10年代日本で開発)が普及して以降、心臓の雑音はともかくとして、肺結核を発見するなどという意味では学校現場での聴診器の必要性は減りました。
最近の流布している意見では、脱がさないで、(医師の側から胸が見えないように)下着はまくって聴診せよ、とか、ひどいのになると、下着の上から聴診器を当てよ、などという意見まであるようです。聴診器は肌に直接当てなければ布を擦る雑音しか聞こえません。マイクとは違うのです。また、体のどの位置で何を聴くのかは目視で位置決めをする必要があります(後述)。着衣云々を言うこと自体如何に無見識なことか。このブログで一つの病気を例にとって私達学校医が聴診器で何を聴こうとしいるのかを説明します。
心房中隔欠損症という病気があります。生まれつき心臓の左右を分ける壁(中隔)に穴が空いている病気です。子どもの時はほとんど症状がなく、後年成人になって症状が出てくるという発病の仕方をします。治療として異常の程度に応じて心臓カテーテルや手術で穴を塞ぐ必要があります。この病気を見付けるに当たっては何を措いても聴診器が決定的な役割を果たします。それはこの病気の場合心臓の音のⅡ音が固定性分裂(後述)をしているという初期診断として聴診器によってしか分からない異常が起こるからです。
聴診器で聴く健常者の心臓の音(心音)は毎分約60回の一拍が「ズートン」と聞こえます。前半の「ズー」をⅠ音(いちおん)、後半の「トン」をⅡ音(におん)と言います。前半のⅠ音は心臓が全身に血液を送り出している音で、左の乳の下(心尖部)で最もはっきり聞こえ、そこに聴診器を当てて雑音など病気の所見が無いかを聴きます。Ⅱ音は左右の鎖骨の下で最もはっきり聞こえ、右側では大動脈弁の締まる音(ⅡA)、左側では肺動脈弁の閉まる音(ⅡP)が最も近くに聞こえます。ⅡAとⅡPはほぼ同時に閉まる音なので左右どちらの鎖骨下で聴いても「トン」と一つの音として聞こえます。ただ、深く息を吸い込んだ状態では健康人でも肺動脈弁の閉じるのに遅れが出て、「トトン」とⅡPの遅れが聴き取れます(左右いずれの鎖骨下でも)。この現象をⅡ音の(生理的)呼吸性分裂と言い異常ではありません。これに対して、心房中隔欠損症では呼吸状態の如何に関わらず肺動脈弁の閉鎖は常に大きく遅れており、Ⅱ音は「トントン」とはっきり分かれて聞こえます。これをⅡ音の固定性分裂と言い、決して聞き落としてはならない所見です。
本来ⅡAとⅡPから成るⅡ音が二つに分かれてていると聴き取れる限界は二つの音の間隔が約30ミリセカンド(3/100秒)だとされています。つまり、40ミリセカンドの場合は誰でもが二つの音であると気がつき、20ミリセカンドだとよほど鋭い人でも一つの音としてしか聴き取れないという意味です。心房中隔欠損症では50から60ミリセカンドぐらいは普通だとされていて、外来診察室でならまず聞き落としはしません。
Ⅱ音の固定性分裂はもう一つ、無害な心臓の異常である完全右脚ブロックでも起こります。つまり聴診器でⅡ音の固定制分裂と聴き取ったら、心房中隔欠損症、でなければ完全右脚ブロックです。後者では心音の分裂程度が40ミリセカンド前後と軽いので聴診では捉えにくく、学校検診でも心電図でチェックしています。
私はⅡ音の分裂だけは聞き落とすまいと自分に言い聞かせて学校検診現場で聴診器を使ってきました。2時間ぐらいの間に100人も聴診する検診場では、そう心掛けることによって緊張感を持続し“漫然と”聴診することだけは避けられると考えたからです。しかしⅡ音の分裂を学校検診の現場で見付けた経験ほとんどありませんが、たった一度だけⅡ音の固定性分裂を“当てたことはあり、印象に残っています。看護専門学校生が対象のときでした。少ししつこく聴診したからでしょうか、診察のあとすぐ(私が「心電図」と言い出す前)にその学生さんが自分から「右脚ブロックです」と申告してくれました。その時は何か大きな達成感があったのを覚えています。
学校検診で心臓を聴診するということには、ここに述べたようなことのほか、心雑音を聴き取るなど幾つかのチェックポイントについて答えを得るという期待が込められています。しかしそれは上半身裸になっての聴診ができての話です。ざわついた部屋で、”下着の下へ手を突っ込んで(何と!)”、或いは”シャツの上から”、聴診して分かることではありません。そんなバカなことを学校医にさせないで下さい。脱衣をさせずに聴診をするくらいなら、学校医の聴診は全部止めにして、児童生徒がひとりひとり専門医の診察を受けてきて、その結果を学校に持参してもらうのがよいでしょう。現代の学校医とはその結果の紙を見て、児童生徒を健康状態別に仕分けするのが仕事ということになるのでしょう。